ジャンルの反復横跳び

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"甘やかな痛み"についてー小説『ナラタージュ』感想

初めに

 恋は、いつだって揺らぎを連れてくる。推しに対してなら、何の不安も抱かずにその人がくれる甘い台詞に心をときめかせることができるのに、自分が恋をするのはこんなにも難しい。本書の題名『ナラタージュ』は、「映画などで、主人公が回想の形で、過去の出来事を物語ること」を示すのだという。その名の通り、主人公の工藤泉が高校・大学時代の日々を回想することで、物語は進む。
 内容に入る前に、本書の空模様の巧みな描写について語りたい。著者の島本さん(が描く泉)の目には、日常の風景がこんな風に見えるのだということにひたすら感銘を受けた。例えば以下。

カーテンの裾をほんの少しだけめくって窓の外を見ると、普段は生徒が走り回る校庭はびっしょりと雨に濡れて、風景の色が同じトーンに塗り変えられていた。耳がぼうっとするほど静かだった。

もう一か所。

寝転がったまま寝返りを打って窓を見ると、もう夜がだいぶ遠ざかった時間帯、空が暗闇から青ざめていく頃だった。

 さて、話を本の内容に戻そう。本書において、泉のこころの動き方は大きく三つに分かれると解する。

  1. 葉山先生への恋情と思慕
  2. 一途に自分を想ってくれる小野君への想いと失恋
  3. 葉山先生への気持ちを断ち切るまでと、引き戻される愛情

断っておくが、本書は恋愛小説に分類されるが全編を通して幸福な描写はあまりない。泉という一人の少女が、葉山貴司という一人のずるくてだめな大人に出会い、別れ、人生を歩いていく物語である。上記の三点を、順に追っていく。

1. 葉山先生への恋情と思慕

 泉と葉山先生とは、ものの感じ方や言葉の選び方が似ていた。お互いに交わす会話が心地よく、それが次第に親密さを形作ったのだろう。葉山先生自身、「君には僕の言葉が正確に伝わっている」と泉に告げている。自分の言葉が、相手に同じ質感を持って伝わっていると感じられることは、相手の言葉が自分の思い描いていたのと同じ世界を切り取ったものだと思えることは、もの凄く嬉しいことなのだ。そして、泉は自分の一番つらいときに引っ張り上げてくれた先生に恋焦がれていった。彼女は高校三年の時にクラスの一部の女の子と波長が合わず、思い詰めて何もかも投げ出そうとしたことがあったが、実行しようとしたその朝に葉山先生と偶然出会ったことで「憂鬱な日々を全う」したのだった。彼が言った、泉に響いた言葉はこれである。

しまいには、学校なんて一度くらい辞めたっていいんだよ、と言い出したのでこちらのほうがぎょっとした。僕も高校は中退したしね、と悪びれもせずに笑顔で彼は言った。

「[.....]死んでしまうくらい嫌なことなんて簡単にほうり出してしまってかまわないんだ。君よりも苦労してがんばっている人がいるんだから君もがんばれ、なんて言葉は無意味で、個人の状況を踏まえずに相対化した幸福にはなんの意味もない。[.....]君が本当に今の場所から離れたいと思ったとき、僕はそれを逃げているとは思わないよ」

逃げてもいいんだよ、ではなく、離れることは逃げじゃないよ、と言ってくれた葉山先生の言葉に、泉は本当に救われたのだ。だからこそ大学生の泉は葉山先生が突然失踪した時には必死で探したし、彼氏といる時の深夜の電話にも出るし、恋人として側にいられなくても、人としてものすごく大切な存在だったのだろうと思う。しかし泉の真っすぐな恋心は、葉山先生が隠していた一つの事実によって引き裂かれる。

2. 一途に自分を想ってくれる小野君への想いと失恋

 泉と葉山先生。泉が高校生の時に出会い、大学二年で「完全に分かれ」た二人の恋。その最中にもう一本、別の関係性の糸が絡まる時がある。それが、泉の高校の同級生である黒川の大学の友人、小野玲二と泉の糸。
高校の後輩と一緒に舞台に出るため集まった泉と黒川博文、山田志緒、そして小野の四人は、練習帰りにご飯を食べたり遊びに行きながら次第に距離を縮めていく。「最初に会ったときから声が好きだった」と泉にいう小野君は、長野の実家や東京の下宿に日常的に人を呼ぶ、感じの良い、けれど隙の無い雰囲気をもつ男の子だ。小野君は泉に二度告白をする。一度目は泉が葉山先生に気持ちを寄せていたため叶うことはなかったが、色んなことが重なった末の二回目の告白を、泉は受け入れる。
少しずつ人を好きになっていく様子が、ゆったりと綴られていて心地よかった。泉は「たしかに彼のことが好き」になっていったのだと、その過程を読者は彼女と共に感じられるだろう。

小野君は駅まで送ってくれた。帰り道ではほとんど彼は口を開こうとしなかった。別れ際に、バイバイ、と真顔で言われたとき、ふいに胸が鳴った。

はじめて泉が小野君を意識したのはここだと思う。後日二人だけで長野の小野君の実家を訪れ、泉は小野君の無防備な言葉にどきっとする。長野から泉が帰るバスを待つその場所で、小野君はもう一度想いを告げる。

あなたが俺のことを嫌いじゃなくて、だけど特別に好きでもないことは分かってる。それでもかまわないし、前に好きだった相手を忘れてなくてもいいんだ。一緒に過ごして楽しかったから。苦しくても、都合の良いことだけ覚えていてみせる。だから俺と付き合ってほしいんだよ

泉と一週間遅れて東京に戻った小野君とは、二人で逢瀬を重ねる。泉は小野君の一番根本的な核となっている部分に触れたり、彼といることが自然になっていったり、唇を重ねるとか行為をするとかに限らず、心を通わせていたはずだった。しかし小野君は、泉が自分を一番好きでいてくれると、最後の最後まで信じることができなかった。彼は自分の弱さを知っていて、その不安定さを隠そうとして隠し切れず、最後まで全力で泉に気持ちをぶつけていた。
 自分は相手のことを好きなのに、相手は自分じゃなくて他の人の方が好きなんだと思うことはもの凄く辛いことで、その考えに囚われてしまったが最後、自分が好きなはずの相手をどんどん信じられなくなっていく。そして彼はその愛情と、裏で育んでしまった憎しみのような暗い感情を、泉を押さえつけ支配しようとする方に発散させてしまう。
重苦しくて切ない夜だった。泉は「体中の体温が奪われて自分の体がプラスティックかなにかに変化していくように思」い、知らず知らず追い詰められていった彼女は、「一番頼りにしていた頃の姿」の葉山先生を思い出す。小野君のそれは行き過ぎてしまって泉を追い詰めたけれど、たしかに恋だったのだろうとは思う。泉も小野君に恋をしていた。
 暖かい気持ちだけで人を想うことなんてきっとできないんだろう。好きだからこそ憎いと、嫌いだと思うことがある。それはどうしようもないことで、日常的に言葉で相手を理解しようとしあっていた二人は、底の底の感情を晒しあうことができずにすれ違っていく。そして泉の後輩で葉山先生の教え子である塚本柚子が亡くなったその日、泉は小野君を振り切って葉山先生の元へ走る。

本当に楽しかったっ、にわかに彼が窓から身を乗り出してそう叫んだ。

彼はあの日泉に告白した時の言葉の通り、本当に「都合の良いことだけ覚えてい」るのだろう。小野君の最後はとても潔かった。「つねに小野君よりも葉山先生のほうが好きだったなんて、本当はそんなわけがない」ことを、最後まで彼に言わなかった泉も。

3. 葉山先生への気持ちを断ち切るまでと、引き戻される愛情

 一方の葉山先生は結局最後まで、泉への気持ちと、そして愛していながら守れなかった妻への後悔を抱えている。そして、どちらも傷付けたくないと言いながら実は自分を一番に考えている、ずるい人だ。泉の気持ちに応えられないと大人ぶって言うくせに、子どものように真っすぐな想いを持ち続けている、それはもう、呆れるほどに。泉はそんな葉山先生のずるさを知っていて、その上で受け入れて、自分ではない人を選んだ彼のことを心から愛している。

「君をこれほど大事に思うようになってようやく、もう一度、妻を大切にできるんじゃないかと思ったんだ」
良かったなぁ、と思う自分が不思議だった。すでに焼けるような熱いまぶたの奥には涙が溜まっていて悲しくないと言えば嘘になるのに。それでも心の底から良かったと思った。

奥さんとやり直すと決めた葉山先生は、勤務している高校に異動を願い出る。そして泉に、世話なったお礼がしたいと言う。泉は部屋に泊めてほしいと告げる。それで本当にお別れを、と。

もう二度と私の前に姿を見せないでください。そしてどこか遠く離れた場所で幸せになって。自分だけ幸せになって憎らしいと、あなたのことなんかどうでもいいと思わせて。

二人は最後までお互いに気持ちを残したまま、別れる。別れにも清々しさはなく、ただ互いにもう二度と会わないと、それだけを決めた別れだった。そうして一人で歩きだした泉は大学を卒業し、職場の男性と結婚を決める。希望を抱いて過ごすある夜、葉山先生の友人のカメラマンと出会う。彼から、葉山先生が自分と写った写真を持っていたという話を聞き、「ずいぶん長いこと眠らせていた懐かしい痛みが胸に突き上げ」てきて、泉は涙を流す。

これからもずっと同じ痛みをくり返し、その苦しさと引き換えに帰ることができるのだろう。あの薄暗かった雨の廊下に。そして私はふたたび彼に出会うのだ。何度でも。

最後に

泉、葉山先生、小野君の三人を中心に記したが、本書後半の柚子ちゃんへの新堂くんの心情など、実際に読んでほしい部分がたくさんあったので、興味を持ってくださった方はぜひ。