ジャンルの反復横跳び

宝塚歌劇その他、心惹かれたものについて

舞台『ゲルニカ』考

幕間。アナウンスに導かれるように立ち上がり、ホワイエに向かう。 パンフレットを買い、席に戻る。 文庫本より2回りほど大きい表紙を捲った。 

遡ること2時間前。開演直前に滑り込んだ深紅の座席に沈みながら、久しぶりの生の舞台に胸を高鳴らせていた。ネット配信で舞台やライブを見られるようになって暫く経つが、日常の延長として手軽に舞台を楽しめる一方で、劇場で空気ごと世界観を吸い込むような、非日常感はこの場所でしか味わえない。…そんな風に高揚していられたのはしかし、幕が上がり浮かび上がる9人のシルエットを目にした時までだった。

「月曜日―」互い違いに前に進んでくる一同、打ち鳴らされる手。破壊された町の残骸から立ち上る煙。時に聖書を引用して語られる台詞は厳かで些か難解だ。役者の熱が、回る舞台装置が、五感の全てを捕らえて離さなかった。

渋谷 PARCO劇場。2020年1月に装い新たにオープンしたこの劇場の、オープニングシリーズの一つとして上演されている『ゲルニカ』。第2次世界大戦期にスペインのバスク地方ゲルニカを襲った空爆そして、ピカソの同名絵画を下敷きとしたオリジナルの舞台だ。脚本は長田育恵氏、演出は栗山民也氏。

〈あらすじ;以下 敬称略〉
ゲルニカの元領主の娘サラ(上白石萌歌)は結婚式の朝、婚約者のテオ(松島庄汰)が反乱軍に加わることを知る。ユダヤの血を引くイグナシオ(中山優馬)は数学者の道を諦め、入隊のためにビルバオに向かう。激化するスペイン内戦の様子を伝えようと動く記者のクリフ(勝池涼)と彼を追うレイチェル(早霧せいな)、道中で護衛を引き受ける共和国軍兵士のホセ(林田一高)。サラは戦争の足音に追い立てられるように屋敷で働いていたイシドロ(谷川昭一朗)の食堂へと赴く。そこではバスク民族党のハビエル(玉置玲央)とアントニオ(後藤剛範)がバスクの独立を語っており、サラと衝突する。サラは母のマリア(キムラ緑子)にパストール神父(谷田歩)の教会で詰問され、身代わりとして女中のルイサ(石村みか)が罰を与えられるが、「穢れた血が半分流れている」というマリアの言葉に自分の出自を悟ったサラは、恵まれた生活を捨て、イシドロの家に身を寄せる。
クリフの一行とイグナシオは道中で出会い、共にイシドロの食堂を訪れる。イグナシオはそこで出会ったサラにテオの手帳を持っていると話し、2人は自分の出自を明かし合い、惹かれ合う。
時は流れ、ゲルニカには多くの難民が押し寄せ、バスク人との溝は深まるばかりだった。そこに近づく軍靴の音、サラのお腹に宿った命、イグナシオの暗躍とマリアの非情な答え。そして、1937年4月26日。市場ができる月曜日の午後4時半からきっかり3時間半、ゲルニカを1000の爆弾が襲う。
「沈黙は罪人だ。だって沈黙は、同意と同じだから!」 

以下、キャストごとの感想を少しだけ、記憶を頼りに書き残しておく。

上白石萌歌さん演じるサラは、純真無垢さで人々を惹き付けるけれど、その清廉さゆえに反発も食らう。冒頭、戦地に赴くテオを何度も呼び止め、「私の子牛は?」と問いただす様は我儘なお嬢様そのものだと感じた。彼女がイグナシオと出会い惹かれ合い、最期を迎えるまで、ルイサとテオは彼女を見守るように同時に舞台にいる。ルイサはサラの純粋さを引き受けるように、あの結婚式の日、陽だまりしか知らなかったサラが身に付けるはずだったウェディングドレスを抱えている。テオはマリアと関係を持っていたことを伺わせるような軽薄な台詞を吐きながら、しかし背を向けてサラを案じているようだった。

早霧せいなさん演じたレイチェル。「女」でありながら戦場に身を投じることの危うさを十分知りながら、どこか捨て鉢な様子を感じさせる彼女は、サラに出会い、「ここに来てよかった」と優しい表情を見せる。「いい女だなと思ってさ」と素直に褒めないクリフとの掛け合いにふっと心がほどけるようだった。爆撃機の去ったゲルニカで、サラが大事に抱えていたおくるみを抱き上げる。クリフに「書いて。伝えて。」と言い残し、戦場に背を向けた彼女は、サラの子どもを代わりに育てていくのだろうか。

キムラ緑子さんの演じたマリア。厳格さと禁欲的な中に覗く官能的な性質に、圧される色香を感じた。教会のシーンでパストールと、サラと、イグナシオと対峙する彼女はライトで照らされた十字架の下、イエス・キリストの足の部分にいるが、立ち位置にも意味はあるのだろうか。ルイサと夫との間に生まれたサラを愛しく思う母親としての顔も、神父やテオに見せる女性的な顔も、どちらも彼女自身だと思う。領主の家とゲルニカの聖なる樫の木には爆撃を落とさないようにと命じた彼女までが最後、落ちてくる赤い緞帳に押しつぶされていったのは、母親になった娘を助けようと、市場に駆けたのだろうか。個人的には、毎週楽しみにしているテレビ番組で彼女の軽快なナレーションに馴染みがあっただけに、舞台での凛とした佇まいが印象的だった。

そして、中山優馬さん演じるイグナシオは、ユダヤ人の母を守るためドイツ軍のスパイとしてゲルニカに向かう青年。道中でテオと出会い、一瞬の差で彼を殺める。金色に輝く麦畑の中でのたうち回る様からは迸る感情が痺れるように伝わってきた。ジプシーの血を引くサラと出会い、出自に悩みながらも母との思い出を語る彼女に惹かれ、結ばれる過程からは若さと激しさを感じさせる。マリアと相対して「争いの早期終結を望むか、どうか」と問う姿は血も涙もない軍人のようなのに、妊娠したと告げたサラに「すぐにこの町をでるんだ。」「逃げろ。」「逃げるんだ。」「サラ!ちゃんと伝えた。」「今の俺から言えるたった一つのことだ。」と声を震わせる様が切なくて、苦しい。マリアの答えを受け、多くの市民を傷つける作戦の実行へと舵を切るイグナシオ。彼は、「数えられるものは全て数えてしまう」と語る母譲りの特質がゆえ、血を疎まれながら非道な作戦を任される何とも皮肉な運命の人だ。繰り返す「逃げろ」が彼なりの精いっぱいの「愛してる」に聞こえて、胸を打たれた。

 舞台を観終わって何度も何度も反芻するほどの衝撃を受けたことも初めてなら、台本が欲しいと、もう一度観に行って今度はメモを取りたいと思ったのも初めてだった。ピカソの絵画とそれを題材とした美術ミステリ小説は読んだことがあったが、生きている役者の皆さまが、関わるスタッフの皆さまが、生の舞台で届けてくださるエネルギーはかくも力強いものかと、心震える思いである。感想を書こうとするとひどく陳腐になってしまうのだが、戦争の中にも日常があり、生活をしている人々がいるということを感じる舞台だったと思う。だからこそ多くの市民が狙われたこの襲撃は凄惨なものだったというべきだし、これを風化させまいとした記者によって、ピカソという偉大な画家が筆を取った。今この時に、見えないものによって「非日常」を過ごす私たちの日々もまた日常であるのと、どこか通じるものがないだろうか。

 本作は東京で千秋楽を迎えたのち、京都、新潟、豊橋、北九州でも上演予定である。予定通りに舞台の幕が上がること、無事に幕が下りること―その尊さを再認識した今だからこそ、ぜひお近くにお住まいの方には足をお運びいただけたらと思う。

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